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よしりんのウーマンラッシュ批判

ネトウヨの無知とウーマン村本の無知は同じである - ゴー宣ネット道場

 

 

幻冬舎の担当氏に聞いたのだが、わしが「芸人なんて河原乞食の末裔のくせに、常識振りかざして、コメンテーターしたり、超未熟な政治知識で正論こいたりしているのを見ると、吐き気がする。わしは『坂田超え』のために、もう一度、ギャグ漫画を復活させたい。」と書いたことが、ネットで炎上しているそうだ。

「差別だ」「芸人全部を敵に回した」などと大騒ぎらしい。
こんな毒舌くらい、立川談志だったら言えたはずだ。 

「無知」とは罪であり、恐いものである。
芸人や芸能人が河原乞食の末裔なのは、歴史的事実なのだから「差別だ」と言われても、確かに被差別民だったのよねというしかない。
漫画家だって芸事だから似たようなもので、だからこそわしは「やくざ者」だと公言している。

芸人は本来、異形の者であり、一般市民に迎合してコメンテーターしているのは邪道なのである。
アホの坂田立川談志なら、ワイドショーが呼ぶはずがない。
本物の芸人だからだ。 

超未熟な政治知識で「善人」ぶって正論こくお笑い芸人にしても、何が面白いの?

無知が罪なのはネトウヨを見れば分かる。
普天間飛行場が米軍の「銃剣とブルドーザー」で奪われたことを知らないのだ。

少年少女まで巻き込んで、日本国で最も熾烈な地上戦を戦ってくれた沖縄県民のことを、ネトウヨは知らないのだ。 

終戦後も米軍の占領下におかれ、熱烈な祖国復帰運動をした沖縄の人々の思いを知らないのだ。

祖国復帰したにも関わらず、米軍の半占領下になっている不条理を、ネトウヨは知らないのだ。

その沖縄で、わしの『沖縄論』(小学館)がロングセラーになったことも、ネトウヨは知らないのだ。
日本人の恥部を見たくないのがネトウヨである。 

芸人の源流は河原乞食であることを知らない奴、沖縄が日本本土の犠牲に常になり続けていることを知らない奴、どっちも同じ「無知」であり、それゆえに「罪」を犯しているのである。

無知は罪だ!

 

https://yoshinori-kobayashi.com/14881/

 

俺は多少の勘違いを含めてなんとか覚えてる!

 

無知は断じて勇気ではない! - ゴー宣ネット道場

 

無知を擁護する奴らがやっぱり出てきた。
30代後半で憲法9条も知らないとなると、小学生以下である。
それなら議論の進行を妨げてはならない。
謙虚に聞きながら、議論の流れで把握すればいいし、最後まで分からなければ帰宅して、すぐ勉強すればいい。
わしは「朝ナマ」に出るときはそうしてきた。
無知は恥である。
無知を誇ってはいけないし、無知のまま尊大に話す態度を勇気などと褒めてはいけない。

「ゴー宣道場」には小学生から、中高校生も来る。
彼らは学校で教えてもらえないことを知りたくて来るのだ。
たまたま『ゴーマニズム宣言』を読んで、知識に目覚めた少年少女が「ゴー宣道場」にやってくる。
これこそ勇気である。
中には質疑応答の時間で、挙手して質問してくる子がいる。
恐るべき勇気だ。 

わしはこのような知識欲に溢れた少年少女には、全力で説明する。
天皇制についてだろうと、安全保障についてだろうと、わしは徹底的に分かりやすく説明する。
ただし、そのやり取りは質疑応答の時間にやるもので、大人の議論の途中にやるものではない。

「ゴー宣道場」にやってくる少年少女は、難しい議論の最中でも居眠りせずに「聞いているふり」をしている。
そこがえらい!
じっと聞いているふりをしていれば、何かのはずみに分かってしまう瞬間が来ることがあるし、どうしても疑問なところは質疑応答の時間に訊ねればいいのだ。

昔、『戦争論』をテーマに「朝ナマ」で議論が行われたときには、大島渚から「商売のために描いてる」と、ものすごく激怒された。
野坂昭如には、「どこかで小林よしのりに会ったら、ぶん殴ってやる」とテレビで公言されたものだ。
当時の大人たちは恐かった。
それこそ人生賭けて言論している大人ばかりだったので、無知なままではいられなかった。
そういう先輩たちがわしを鍛え上げてくれたのだ。 

今は本当にダメだ。わしが厳しくしようとしても、すぐ擁護するアマアマの大人がいる。
わしの『民主主義という病い』を読めばいい。
民主主義が堕落してくると、大人をなめた無知な若者が出現し、若者に媚びる大人が続出して、国を危うくするということが分かるだろう。
古代ギリシャの直接民主政の時代から繰り返された現象なのだ。
無知は恥である。罪でもある。
だからわしは今でも本を読み、勉強をし続ける。

 

https://yoshinori-kobayashi.com/14872/

 

俺も勉強し続けてます。よしりんほどじゃないけど。「古代ギリシャの直接民主政の時代から繰り返された現象なのだ。」というセリフはここから来ております↓

ch.nicovideo.jp

第260回「無知に媚びる民主主義という病い」

 民主主義が人類の歴史上に初めて登場したのは、古代ギリシア都市国家(ポリス)においてだった。

 市民たちは「民会」に参加して、公的な問題の対処を自ら決定した。

 ただし、「市民」とは「戦士」のことである。

 兵役に就く者だけが議論に参加する事ができ、周辺の他国と戦うか否かといった問題を直接民主政で決めていたのだ。

 命を懸けて共同体を守る覚悟を持っている者だけが、民主主義を行使できる。

 女・子供・奴隷などは「市民」とは認められていなかった。自らの所属する共同体・国を守る覚悟がなく、いざとなったら逃げるという者は「奴隷」の身分に置かれ、議論の場から排除されるのは当然のことである。

 これが、民主主義の起源における原則なのである。

 近代国家の始まりであるフランス革命でも、徴兵制によって国民をつくったのである。

 ウーマンラッシュアワーの村本は、「侵略されても戦わない。山の中でもドブの中でも逃げまわる」と公言した。

 つまり村本は正真正銘の奴隷であり、そもそも議論に加わる資格など持っていないのだ。

 そんな人物を、国のことについて議論しようという「朝まで生テレビ」の議論に参加させたこと自体がおかしいのである。

 

 古代ギリシアと現代日本では違うんじゃないかとか言い出す者がいそうだが、本質的には変わらない。

 国民でつくり、国民で守る国家であり、その経営は民主制でなされるのだから、国家を守る覚悟のある者と、全然その覚悟のない者が、同じテーブルに就いて議論していいはずがないのだ。

 侵略されても戦わない、ただ逃げる、国を占領され、自由を奪われて、奴隷になってもいいという者が天下国家を語ってはならない。

 国家の存続に責任を持たない感覚は、憲法9条護持や極左の連中も同じである。

 国外から侵略されても、国内から独裁制が生まれても、圧政が敷かれたら人々の自由は奪われる。そんな時、自由を守るために命を懸けて戦う覚悟のない者は、あっさりその境遇を受け容れ、自ら奴隷になるだけなのだ。

 チベットウイグルを見ればいい。ほとんどの民は圧政を受け入れる。ごく少数の者がテロも辞さずの「自由と独立の戦い」を続行しているのだ。

 しょせん奴隷志願者が「安倍政権は独裁だ、自由を守れ!」なんて非難の声を上げてもパワーにならない。覚悟のない者は議論に参加する資格はないのである!

 

 それでも「言論の自由はある」とか言い出す者もいるかもしれないが、国家を守れずに「言論の自由」は守れないのだから、幼児並みの駄々っ子な主張は「公論」にはならない。一人で呟いておけばいい。

 最低限の資格もクリアしていない、レベルが低すぎる人物を朝生に出すこと自体がおかしいのだ。そんな奴隷を出して、井上達夫ほどの学者にその相手をさせるなんてことは失礼である。

 このような民主主義の原則は、『民主主義という病い』に詳述している。これを読んでいれば、村本を朝生に出すなんてありえないことだと、すぐわかるはずである。

 

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結論・圧政を受け入れる民=不自由主義者の犬、受け入れないやつ=勇者!それだけはいえらあ!!圧政受け入れる奴がいたらこういえ、「虫けら!」ってな。