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陰謀論でよく出てくるワクチン有害説は社会的観点??

ワクチン有害説 | 疑似科学とされるものの科学性評定サイト

 

言説の一般的概念や通念の説明

語句説明

 類における病の歴史は感染症との戦いの歴史でもあり、感染症は多大な被害を我々にもたらしてきた。ジェンナーらの貢献によって種痘が退けられ、2000年には日本も含めた西太平洋地区においてポリオ撲滅宣言が出されたものの、未だに人間と感染症との攻防は続いている。本項では、こうした感染症に対するワクチン接種が、ヒトにとって「有害である」との主張を検討する注1)。  

  「ワクチン有害説」とは本項では「ワクチン接種はヒトにとって有害である」という旨の主張の総称として位置づける。「ワクチン有害説」を構成する主張は幅広く、内容も多様である。たとえば、「ワクチン接種には効果がない」「ワクチン接種によって別の疾患(自閉症など)が誘発される」「ワクチンを打つよりも感染症に自然罹患したほうがよい」「行政や製薬会社、医師などの利権によって必要のないワクチンが打たされている」などの主張が「ワクチン有害説」を形作っていることが推定される[1-4]。そのため本項でも、こうした言説を細分化しながら検討する。個別のワクチンについては、特に「子宮頸がんワクチン」と「インフルエンザワクチン」をこの問題の中核的要素として位置づける。

  なお、本項ではワクチン接種による副反応(副作用)“それ自体”は有害説とはみなさない。副反応による被害はワクチン接種にあらかじめ想定されているリスクであり、コスト―ベネフィットという視点からの議論が可能だからである。評定では、有害説を訴える個々の主張がこうした関係性を十分に捉えているか重視する。


注1)専門的には、ワクチン接種には免疫付与と予防接種というふたつの意味が含まれる。前者は「ワクチンの投与」を意味し、後者は「免疫の誘導あるいは付与」を意味している。本項では基本的に「ワクチン」という表記で統一し、先のふたつの意味を同義的なものとして扱う。「中略」
 

2.インフルエンザの事例(ワクチンの有効率への理解) 
  「ワクチンが害である」かどうか判断するためには「ワクチンを打たなかったことによるメリット/デメリット」も比較する必要がある。しかし、多くのワクチンにおいてこうした比較は積極的に行われてはいない。感染症の脅威に対する正当な評価を下すのが非常に難しいというのがその理由であり、そのため、基本的には「ワクチンで防げる病気VPD(Vaccine Preventable Diseases)」に代表される、「ワクチンで防げる疾病はワクチンで予防する」という予防原則の原理に従っているのである。 
  ここではまず、インフルエンザワクチンを例として取り上げながら「ワクチンの有効率」を紹介しつつ、こうした比較・評価の概要と難しさを説明する。ワクチン接種において「有効率70%」といった場合、「ワクチンを打たずに発病した人のうち、70%はワクチンを打っていれば発病が避けられた」という意味である。しかしこれを「100人のワクチン接種者のうち70人が発病しない」という意味に誤解されることがたびたびある。

  ワクチン接種を受けていない100人の生徒がおり、内10人がインフルエンザに罹患したとする。有効率70%とは、「もしも全員がワクチン接種を受けていたらその10人のうち7人は発病せず3人が発病する」ということである。つまり、ワクチン接種をすれば97人は発病せず、接種しなければ90人が発病しないということになる。確実に7人には効果があるのだが、ワクチンを打っても打たなくてもインフルエンザを発病しない生徒も多いので、効果が薄いと錯覚してしまうのである。

  インフルエンザワクチンはその性質上、体験としての効果を特に実感しにくい。流行ウイルスの変化によってワクチン株も変えていかなければならず、その予測如何による「当たりはずれ(不確実性)」が大きいのである。ワクチン接種によってインフルエンザの症状が軽微になるが、「罹ったという事実」にとって存在しない症状の比較は意味をなさず、思い込みや体験を過大視しやすい背景であることが推定できる。実際、日本でインフルエンザワクチンの集団接種(定期接種)が行われなくなった原因として、「有効率への誤解」が問題視されている。

  さて、ワクチンを打たないことによるメリット/デメリットの比較は、以上のような有効率を理解したうえで議論する必要がある。打たないことによるメリットは「副反応被害がなくなる」ことであり、デメリットは「その感染症の影響と罹患するリスク」である。この例でいうと、仮にワクチンを打たなかったら不利益を被ったであろう7人を含めて感染症の影響をどう評価するかということである。しかし、この作業は困難を極める。

  たとえば、百日咳は非常に稀な疾患であるためワクチンの必要はないとする見解がある一方で、症状が悪化した場合のことを考慮して必要だとする意見がある。破傷風は病態が悪化しやすく治療も難しいためワクチンが必要であるとの見解でおおむね一致しているが注11)、おたふくや風疹(はしか)においては「ワクチン接種ではなく、むしろ自然罹患させたほうがよい」との意見もある[1-4]。

  このように、個別の感染症(ワクチン)についての被害の影響が一定に定まらないのであれば、(問題もあるが)ワクチンを打たない場合は考えず、打つことによるメリット/デメリットのみを考えるという方針に意義があるように思われる。近頃広まっているVPDはこうした理念に従っているともみなせ、多くの個人と社会的な利益を優先してワクチンを推進しているという見方ができるのである。 
  そして、これを凌駕する論理が「ワクチン有害説」が求められるのであるが、現状はそうなっていない。どのワクチンが必要で、どれが不要なのかといった見解が一致していないことがみられるのである。

  総じて、「ワクチンは有害である」との理論には疑問点も多いものの、全く根拠がないとまではいえず、相応の論理性は認められる。特にHPVワクチンなどの「新しいワクチン」は今まさに長期的な経過観察を行っているとも換言でき、また、統計的な確率論では個人の問題が割り切れないことにも注意が必要である。VPDについても、すべての標準を諸外国に合わせるべきという意見に対する「乳幼児死亡率」や「医療制度の違い」という観点からの反論があり(日本よりもワクチン接種率が高いが乳幼児死亡率も高い外国を見習う必要があるのかなど)、本当に必要なワクチンは何であるかという議論の呼び水として有効である。

  しかし、「ワクチン有害説」全般としてワクチン接種の対抗理論として採用されるほど整っておらず、理論として未成熟であることも事実である。「想定している副反応」をどう評価するかについては常に注意が必要であるものの、有害説の論理に支持するだけの正当性があるかどうかはまた別問題である。

 

データの観点:

再現性(低)

  ワクチンは有害であるとする場合に用いられるデータの多くは、ワクチン接種における「有害事象」や「副反応」を取り上げたものである。しかし、副反応の発症頻度については多くの場合想定された確率の範囲内に収まっている。 
  たとえば、HPVワクチンにおける副反応について、名古屋市が行った調査ではワクチン接種との関連性は認められなかった[7]。また、平成28年3月に行われた厚生労働省におけるHPVワクチン副反応の成果発表にて、遺伝子による関連性が示唆された報告もなされたが、これは、症状が出た場合のみを集計したものであり、データ不足であるとの見解が公表されている[8]。  

  ワクチン有害説が提示する副反応データとして、自閉症MMR(麻疹、風疹、おたふく)混合ワクチンとの因果関係を示唆した研究(1998年)が有名である。世界で最も権威ある医学誌の一つとされる「ランセット」に論文が掲載されたことにより話題になったこの研究だが、現在では当該研究の責任者であった英国のウェイクフィールド医師によるデータの不正操作が明らかになっており、信頼のおけるデータではないことがわかっている(実際、この論文は2010年に取り下げとなっている)。  

  細かくいえばヒトの体は個体によって違うため、想定外の副反応が起きることも否定しきれず(現に、歴史的に何度も見られた)、そもそも統計的な確率論で扱うこと自体に疑問があるという見方もできる。しかし、そうだとすると副反応や有害事象の事例収集にも同じことがいえてしまい、意味をなさない議論となってしまう。「中略」

客観性(低)

  予防接種と自閉症の因果関係を示唆した研究では、再現性で述べたような研究不正が行われたため当然ながら客観的とはいえない。また、HPVワクチンにおける副反応の事例報告も客観性においてバラツキが大きい。特に「痛み」については機能的な症状も考慮しなければならず、完全な峻別はほぼ不可能である。そのほか、想定されたリスクについてのデータの客観性は非常に高いが、これは有害説を唱える根拠としてはかなり弱い。  

  副反応に関する問題では、現前している症状に対してその原因を何に求めるかという文脈において主張が対立する。これには、ワクチン接種における用語の定義が問題の背景としてある。 
  論理性でも述べたように、ワクチン接種において「有害事象」という場合、原因が何であれワクチン接種後に起きた身体の不調を意味する。一方「副反応」とは、ワクチンの成分によってそうした症状が引き起こされた場合をいう。そのため、ワクチン接種後における有害事象には真の副反応のほかに、他の要因による「紛れ込み」が常に推定される。  

  単純に有害事象のすべてを「副反応」として扱うと、紛れ込みの可能性を排除しきれず、データの客観性が著しく損なわれてしまう。日本では、ある一定の基準を「副反応」として認定するという体制を基本的には採っているが注14)、そこにも未知の副反応を見逃してしまうというリスクが伴う。 
  理想としては、有害事象の中から真の副反応のみを精度高く抽出することであるが、現在の「科学の限界」として、とりあえず基準を定めるという方策に従っている。「とりあえず」の基準をどこに求めるかということが最大の論点であろうが、しかしこれが非常に難しいのである。  

  海外と比較すると、たとえばデンマークでは、電子的医療記録をもとにしたデータベースを構築しており、それにより、ある医薬品発売の後にこれまでと違う兆候が現れたかどうか評価できるようになっている。これは、特定の医薬品を利用した人/利用していない人との比較もしやすく、副反応の線引きを容易にしやすいという大きな利点がある。 
  一方、日本ではこうしたモニタリングのネットワークがないため、「現れた有害事象をとにかくすべて報告してもらう」という体制がとられている。これには、メディアなどによって問題が注目される前には報告数が少なく、関心が高くなると過剰に報告される「紛れ込み」の危険性があるが、なるべく多くの可能性を探るという利点もある。  

  紛れ込みの疑念はどこまでも付きまとうが、そんな中でも日本はある意味柔軟といえるシステムを採っている。これまでの副反応における事例もこうした観点に基づいており、相対的に極めて慎重に検討されている。 
  こうした制度と比較して、すべての有害事象を「ワクチンは有害である」との根拠に含めるデータには客観性が高いとはいえない。


注14)厚生労働省によって「副反応報告基準」が類型化して定められている。

社会的観点:

公共性(中)

  現在、ワクチン接種における有害事象は厚生労働省((独)医薬品医療機器総合機構)にて一元管理されており、定期的に副反応を評価する体制が整ってきている。これは、ワクチン接種における副反応事例の研究を重視しての施策であり、極めて公共性の高い状況下に置かれている。

  しかし、主にマスメディアを中心とする報道において、感情的な議論を誘発するような見方が先行しており、「ワクチンが有害である」という言説がコントロールされないまま流布される遠因となっている。特にHPVワクチンにおける議論でこれが顕著であり、日本のこうした状況はWHOから名指しで批判されている。WHOの見解がすべてであるとはいえないが、ワクチンに対する批判的思考が、日本においては建設的に展開されていないことが省察できる。

  以上から、公共性という問題においては、(歴史的に見ても)メディアの責任が重く、科学における報道のあり方を見直すべき事柄といえる。

歴史性(高)

  ワクチンが有害であるとの主張やそうした主旨の活動は、世界的に古くから存在していた[9]。日本でもワクチンの有効性についての議論は過去に何度も行われてきた。建設的な議論によってよりよいワクチン開発につながったものもあれば、誤った結論に至りその後不利益が招かれたものまでさまざまである。前者の代表例は百日咳ワクチンや日本脳炎ワクチンであり、後者の代表例はインフルエンザワクチンである。

[百日咳ワクチン]  
  1950年ごろに開発された百日咳ワクチンは「全菌体不活化ワクチン(DwPT、DTwp)」であったが、重篤な副反応が多く報告された。個々の事例において各地で訴訟が提訴され、それが法改正にもつながった。その後、「無細菌ワクチン(DaPT、DTaP)」が開発され、以降、重篤な副反応の報告はほぼ皆無となった。

[インフルエンザワクチン] 
  インフルエンザワクチンは長年集団接種であったが、1994年の予防接種法改正によって対象疾病から除外された。この背景には、「理論の論理性」で述べたような有効性に関する誤解が大きな要因としてあった。 
  2001年の法改正によって、高齢者のインフルエンザワクチン接種が一部公費負担によって実施されることとなった。これは、ハイリスク群を重点的に扱うという方針である。日本におけるインフルエンザワクチンの有効性はおおよそ、生後6ヵ月~6歳未満で25%程度、6歳~12歳で67%、19歳~76歳で63%、65歳~79歳で62%程であり、乳幼児と高齢者において有効性は低くなるが、症状が重篤化しやすいのもこの層である。そのため、前述のような方針が示されているが、この理解が浸透しているとは言い難い。また、集団接種の中止以降、インフルエンザの死亡率が上昇しており、ワクチン接種率の低下との関連性を指摘するものもある。

  このように、ワクチンについては多方面で議論があり、それによって国の指針が決定されてきたという経緯もある。現行制度の是非は置いておくとしても、歴史的には数多くの議論が展開されてきたといえる。

応用性(低)~(中)

  何であれ、個別のワクチンの「害」について繰り返し評価を行うことは必要である。ワクチンの性質上、効果の社会的有用性は流動的であり、副反応などへの適切な評価も続けて検討されなければならない。また、未知の副反応を検出するという意味においては、個別のワクチンの有害性を訴えることにも一定の意義がある。  

  しかし、予防接種・ワクチンへの理解が低いことが推察される現状の日本で「(過度な)有害説」をあえて主張するメリットは、かなり少ない。ワクチン接種における過剰な危険性が優先されると、たとえ安全性が確認されたとしても、その後のフォローが不十分になる可能性が高く、不明確な言説のみが広がってしまう。  

  また、この問題にはマスメディアを中心とする報道の責任も大きく、単に医療や科学の領域で片付くものとも考えにくい。副反応におけるショッキングな事例を情緒的に伝えることも、マイノリティの尊重という観点から必要である。しかし、そうであるならば、その影響によって、ワクチンを打ちたくとも打てないマイノリティの「目に見えない」危険がなおざりにされてしまうのだということも、同時に認識されなければならないだろう。



総評:

疑似科学

  ワクチンは、有効であればあるほど、時間の経過によってその効果が実感されにくいという特殊な性質をもっている。また、どのような選択においてもトレードオフの感が否めず、単に科学的であるかどうかだけでは語れない問題といえるだろう。

  ワクチン接種の是非において議論がかみ合わないのは、確率的に被害に遭う人もいるが、全体としてプラスであるから仕方がないという、そもそもの考え方をどうとるかによって見解が真逆になるからである。そういうわけで、範囲が限定的なワクチンに対しては特に厳しい目が向けられることも、ある意味うなずける。特にHPVワクチンを取り巻く状況が、こうした傾向性を顕著に表しているといえる。

  ただし、日本においてはワクチンの効果に対する理解の低さも問題だろう。個々のワクチンはその感染症に対して無敵の強さを誇るものではなく、設定された用途や目的のために使用されているという実態把握も必要であり、そうした理解によって、「危険に対する適当な応答」も促されるのである。本項では「疑似科学」と評定するが、副反応被害を軽んじることなく、適切な合意形成に向けた議論は必要である。



参考文献