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この地震は、兵庫県南東部の淡路島・同じく兵庫県南東部で本土部の阪神地区(神戸・芦屋・西宮・尼崎・宝塚・伊丹・川西・三田・猪名川町)・東播磨地方中南部(明石・加古川・三木・稲美町播磨町高砂・小野・旧吉川町など)、姫路市〔旧飾磨郡夢前町家島町)・旧神崎郡(香寺町)・旧宍粟郡(安富町)を含む〕・大阪府豊中市を中心に甚大な被害を与えている。 1月17日の災害発生当時、気象庁命名規定に基づき、地震を「平成7年(1995年)兵庫県南部地震」(The South Hyogo prefecture Earthquake in 1995)と命名。が、気象庁による正式名称とは別に、毎日新聞が「阪神大震災」と呼び始め、他の報道機関の中にもこれに追随する動きが出始めた。一方、朝日新聞や日刊スポーツでは「関西大震災」。読売テレビでは「関西大地震」と呼称していたこともある。 次は阪神・淡路大震災の被害について説明 死者:6,434名 (死者の内訳は、兵庫県内6,402名(99.5%)・兵庫県外(大阪府京都府など)32名(0.5%)。死者の80%相当、約5000人は木造家屋が倒壊し、家屋の下敷きになって即死、震災の犠牲者6434人のおよそ1割に当たる約600人が、室内家具の転倒による圧死と推定する調査(山口大学・大田教授のグループ)もある。)行方不明者:3名 負傷者:43,792名(負傷者のうち重傷者は県内10,494名(98.2%)・県外189名 (1.8%) 軽傷者:県内29,598名(89.4%)・県外3,511名(10.6%)) 死者の県内県外の比率から見て県内の負傷者数は混乱による影響で正確には数えることができなかったと言われる。 避難人数 : 30万名以上 住家被害 : 全壊104,906棟、半壊144,274棟、全半壊合計249,180棟(約46万世帯)、一部損壊390,506棟 被害総額 : 約10兆円規模 など 都市型震災としては、大都市を直撃した東南海地震以来であり、道路・鉄道・電気・水道・ガス・電話などのライフラインは寸断されて広範囲において完全に機能しなくなった。これ以降、都市型災害および、地震対策を語る上で、「ライフライン」の早期の復旧、「活断層」などへの配慮、建築工法上の留意点、「仮設住宅」「罹災認定」等の行政の対策などが注目されるようになった。 ちなみに日本は地震大国(帝国)であり、日本の大型建築物は大地震にも耐えられない構造であると分かり、1981年には大幅な建築基準法の改正が行われた。が、日本の建造物が安全であるとする報道に基づいた誤解をしている市民も多く、1982年以前に建てられたビル・マンション・病院・鉄道の駅舎などでも広範囲にわたって倒壊・全半壊が多くみられた。 特に神戸市の長田区においては、木造住宅が密集していた地域を中心に火災の被害が甚大で、地震直後に発生した火災に伴う火災旋風が確認されている。これにより、近隣の建物に次々と延焼して須磨区東部から兵庫区にかけても6,000棟を越す建物が焼失した。消火活動では上水道が断水したため、わずかな防火貯水槽を探しているうちに炎が延焼して被害が大きくなる原因を作った。消防士が、断水により消防水が出ないホースを持って炎の近くに立ち尽くす姿が報道映像として残されている。 1995年当時の消防局には、進出路の瓦礫を除去して消防車を現場へ急行する車両・消防ヘリコプターが十分に配備されておらず、現場への到着が遅れて重要な初期消火に失敗している。そして、各地の消防車が応援に来ても消火栓とホースの規格が合わず消火出来なかった事が問題になった。これら火災の原因は、いったん止まった送電が一時的に再開された(すぐに止まったが)影響で倒壊した家屋などで漏電・損壊した送電機器や家電品が発火の火種になったとも。 当震災の被害について、多くの研究者・専門家の間では、「犠牲者については、地震が冬季の早朝の発生であったために交通量や火の使用が少なかったために最低限である6,000人に抑えられている」との意見がある。 また、瓦礫の下の被災者を救出する車両が不充分であったほか、防災機関の(救急ヘリ)での搬送も少なかった(震災当日のヘリ搬送:西宮市にて1名のみ)。この搬送は大阪市消防局から緊急医薬品輸送に従事した機体が帰りに搬送したものである(62人/1週間(内、17人/3日間))せいで負傷者の救出・搬送が遅れることとなった。走行する自動車によって道路上の消火ホースが踏まれたため破損送水不能になる現象が多発した。震災後、兵庫県・神戸市においては、防火貯水槽が整備されて消防へのヘリコプターの活用が検討されている。 西宮市仁川では、住宅街に面した造成斜面において大規模な地すべりが起こり、34名が犠牲になった。死者は関東大震災の10万人に比べると約1/16である。これは被災地域が関東大震災より狭かったこともあるが、大正時代に比べると建築物の不燃化が進んでいること、住宅の耐震性が高くなった影響もある。 次は阪神淡路大震災による交通の影響について 阪神高速道路神戸線の倒壊は、震災の甚大な被害を象徴するものとして世界中の新聞の一面に大きく掲載された(ちなみに私もその阪神神戸線の倒壊は衝撃的でした&よく覚えてます)。「倒壊した高速道路が、倒壊する寸前に波打っていた」という目撃談話が報道番組において報じられている。また、山陽新幹線においては、橋脚の倒壊と倒壊箇所の調査から手抜き工事の痕跡が見つかっている。 高速道路においては、橋脚と道路面の接合部分が地震によって破壊されたことも確認された。そのため、「柱の上にただ乗っかっている板」のような状態になり、耐震性はほぼゼロになったと考えられる。崩落した高速道路と、かろうじて残った部分との境に取り残された高速バスの写真が印象深いが、その部分ではこの事象が発生していたと思われる。 地下の神戸高速鉄道東西線大開駅が崩壊したために、その上の国道28号において陥没が発生した。直後の交通規制などが迅速に行っていなかったせいで国道43号・国道2号・山手幹線などの神戸方面に至る主要幹線道路において大規模な渋滞が発生(規制をしなかった理由としては、この時の警察の方針が倒壊家屋などからの人命救助を優先していた影響もある)。また高速道路と同様、当時「地下鉄道は地震に強い」という風潮があったが、大開駅周辺は軟弱地盤かつ開削工法であったために、振動に揺さぶられて中間柱が崩壊したと考えられている。 当時、建設中であった明石海峡大橋は、地震による直接的な被害は無かったものの、全長が1m伸びるという事態が発生した。大橋の淡路側の山上に、フランス革命200周年記念事業として、日仏友好モニュメントが建設予定であったが休止。都心部にある神戸市役所は、第2庁舎の6階部分が潰れている。当時、須磨区にあったラジオ関西の本社も被災し、敷地内の仮設スタジオに移転したのち1996年6月に現在のハーバーランドへと移転した。 また、神戸新聞本社が置かれていた三宮の神戸新聞会館も同じく被害に遭って本社を西区の制作センター(印刷工場)に仮移転するとともに編集業務はダイヤニッセイビル(ハーバーランド)で仮構築し、1996年7月に神戸情報文化ビルへと正式に移転する。ただし、新本社への移転は震災以前からの既定方針で、同ビルも建設中だった。 次は阪神淡路大震災の影響で倒れたり崩壊した写真を紹介 ユーヤエメリヤーエンコのブログ-柏井ビル倒壊 推移2 完全に倒壊したビル ユーヤエメリヤーエンコのブログ-湊川熊野橋東側すぐ南・トポス東山店前 これは湊川熊野橋東側すぐ南・トポス東山店前の写真です。完全に潰れてます。 ユーヤエメリヤーエンコのブログ-中山手通 にしむら珈琲店前 次は中山手通 にしむら珈琲店前の写真です。これもひどいですね。 ユーヤエメリヤーエンコのブログ-柏井ビル倒壊 推移1 傾いていた頃 これは柏井ビルが傾いていたときの状態です。地震の力はすごいですね。  ユーヤエメリヤーエンコのブログ-柏井ビル倒壊 推移2 完全に倒壊したビル これは柏井ビルが完全倒壊した状態です。 次は復興について 全国からいろんな形の「救援・支援」が寄せられた。救援物資・義捐金・ボランティア活動のほか、インフラストラクチャーの復興には他府県の電力会社・ガス会社などの多くの職員が復興応援のために現地入りした。意外なことに日本最大の暴力団山口組もボランティア活動してました(実話です)。 復興事業では、ライフラインの復旧が最優先とされた。電気は殆どの地域で3日から1週間程度で復旧が可能だったが、地下に埋まっている水道・ガスの復旧に長期間を要した。また神戸市では、当時水道局があった神戸市役所2号館6階が7・8階に押し潰されて被災したため、即時に資料が用意できず、水道管の経路情報の把握に時間を要するなど復旧に影響を及ぼしたとされる。その後、2号館は6階~8階までを撤去し、5階建てとして修復されており、水道局も4号館に移転している。 復興支援物資の輸送も全国各地において受け付けられた。また、交通網も至る所で寸断されていた。大量の復興支援物資を早急に送るため、復旧よりも残された道路を優先的に整備して被災地と大阪市を結んでいた。神戸近郊の道路でも、「神戸市に行く」と言えば交通整理などで最優先に通行させてもらえるなど復興活動を支援する場面が見受けられた。建造物の本格的な復興事業が開始されたのは翌月に入ってからになる。この頃には多くの機材・人材が全国から駆けつけて瓦礫の撤去や再建をサポートしていた。 ウォーターフロントの地盤が陥没した岸壁に仮設の桟橋を設けて大阪と神戸を結び、疎開する人・復興支援者の負担を少しでも軽減する努力を行っている。また、残された海岸を利用して医療物資などの搬入を優先的に行っていた。多くの手助けのもと、2年後の1997年3月31日に、全ての埠頭・コンテナバースが復旧。およそ2ヶ月後の同年5月19日、神戸港復興宣言が発表される。 地震直後に現地において、被災者支援のボランティア活動に参加した人の数は一日平均2万人超、3ヶ月間で延べ117万人とも言われる。被災地でのボランティア活動(専門ボランティア・情報ボランティアを含む)の重要度に対する一般の認識も飛躍的に高まった。現地には行かずに被災負傷者の為の献血義捐金拠出・物資提供などの後方支援に携わった人々も含めると参加人数はさらに増えるものと見られる。 このために、この年は日本における「ボランティア元年」とも言われる。後に、内閣は1月17日を「防災とボランティアの日」、17日を中心とした前後3日の計7日間を「防災とボランティア週間」と定めた。この震災で、ボランティアに関わった人々の中には、精神的に大きなダメージを負ってしまった人も多かった。被災した人々のケアだけでなく、ボランティアの心のケアも、とても重要なことであることが明らかになった初めてのケースでもあった。 この地震が大惨事となった最大の理由は、老朽木造瓦屋根の住宅が多かったことであるが、その他の理由の一つに、近畿地方の瀬戸内海岸では他の地方に比べて地震の発生が少なかった事が影響もある。地震の専門家の一部は、小さい規模の地震すら起こらないことで、エネルギー(ひずみ)の蓄積が起こっており、ひとたび地震が発生した場合には規模の大きなものになる危険性をはらんでいる事を述べていた。が、「近畿地方地震が少ない。仮に起こったとしてもそんなに大きな地震ではないだろう」といった“実体験”による過信(ただし、実際には紀伊半島をはじめとして近畿地方は幾度も巨大地震に襲われている。)から、「近畿地方では大きな地震は起こらない」とする誤解の広まり、または、地震自体を意識することが少なく専門家の指摘を信用する人間も少なかった。 この地震の原因である活断層は、全国に広く分布している。が、現在においても、大地震を正確かつ厳密に予知することはほぼ不可能であり、「活断層上の建造物の耐震性」「地盤の強弱」を前提とした補修、建築であっても、地震発生の際の被害予測は非常に難しい。 他に「地震に起因する火災(特にもらい火)」などは、多くの火災保険では填補除外条項とされているケースが多く、採算性の問題も含め改善が進んでいない。そのため、この震災を機会に地震保険への注目が集まるようになった。そういった諸問題も含めてこの「大震災」は日本の災害対策上重要な位置を占めている。 兵庫県は、以上の教訓を踏まえて神戸市中央区人と防災未来センターを建設した。なお、新潟県中越地震による新潟県への別館建設も検討中である。また、震災の記録を残すため、津名郡北淡町(現在の淡路市北部)には兵庫県南部地震震源となった野島断層を保存する北淡震災記念公園が、神戸市中央区メリケンパークには崩壊したメリケン波止場を保存する神戸港震災メモリアルパークが整備された。 $ユーヤエメリヤーエンコのブログ-震災当時の状態が保存されている神戸港 これは震災当時の状態が保存されている神戸港震災メモリアルパーク。2004年2月撮影。すごいですね。 次は阪神・淡路大震災の影響について この災害によって消防・レスキューの得た経験は、消防無線における全国共通波の増波や、緊急消防援助隊、広域緊急援助隊消防救助機動部隊ハイパーレスキュー)、救助機動中隊の発足と整備につながる。これらの組織は、後の新潟県中越地震(2004年10月)やJR福知山線脱線事故(2005年4月)においても大きく貢献することとなった。また、消防組織はもともと市町村単位であり、この震災によって、消防の広域動員における指揮・通信・装備などで多くの問題が露呈し、改善が進められている。しかし2011年現在、道州レベルの広域大災害の消防/救命活動指揮組織がようやく作られつつあるが、これはあくまでも事が起こってから臨時で設置される組織で、常設組織を設けて平時から大規模災害対処計画を研究立案する段階にはなっていないとのこと。 一方、1995年3月の地下鉄サリン事件と合わせ、自衛隊の危機管理における機能が注目され、国民の自衛隊に対する好感が震災以前と比べて格段に高まり、自衛隊が必要であるという世論も大きくなった。しかし、防衛省はもともと平時にあって有事に備える広域危機管理官庁であり、震災対処計画機能はあるものの、道州レベルでの協議の消防側カウンターパートが消防庁しか存在しないのが実情であるなど、災害援助においては装備や組織の問題によって充分に機能し得ないので、「大規模災害に十分対応するためには、装備のほとんどが武器・兵器で占められる自衛隊を用いるのではなく、充実した専門装備を持つ災害救助隊を別に設立すべきだ」とする意見あり。これについては、「蓋然性の低い大災害に対応する官僚組織を戦争と別建てで設立するのは予算の無駄であり、自衛隊の災害救助に関する装備・機能をもっと充実させて当たるべきだ」という意見もある。 関東大震災が起こった際の帝都復興院に相当する組織となる阪神・淡路復興対策本部が、2000年までの5年間総理府に置かれた。戦災復興都市計画による土地区画整理事業が完了しようとしていた時期に震災が起こり、また、戦災を免れたことによって戦前からの老朽木造住宅が密集して残っていた地域に特に甚大な被害が見られたため、神戸市は戦災復興の延長線として震災復興を捉えた。復興に当たっては、1976年10月29日に発生した酒田大火の復興事例が短期間での都市復興の事例として参考にされた。 単なる災害前の街への復旧ではなく、道路幅の拡幅など大掛かりに区画変更を行い、緑地を多く取って緩衝地帯を設定する事 その実施に当たっては、単なる上意下達ではなくアウトラインのみを地元に提示して細部については地域住民の声を聞いて合意を形成をしながら、街全体を短期間のうちに、一気に防災型の都市に変える事 家が全・半壊した住民は学校や公共機関の建物に避難した。被災地の学校の多くは休校。被災者は、体育館・教室などで寝起きした。また、公園にテントを張ったり、自家用車において寝起きしたりする人もいた。震災当初は、公的な避難所として学校等の公共施設を避難所として認めて食料・飲料水の配布がされていたが、その後、公園への避難者が形成していたテント村についても食料等の配布が行われるようになった。 震災発生後1カ月を経て、仮設住宅が建設されて入居が始まった。が、その多くが被災地を離れた郊外や周辺の自治体に建設されたために避難所から仮設住宅への移行が進まなかった。学校等の避難所は、4月以降の授業開始にあわせて解消するために、都心部での仮設住宅の建設や学校等避難所から待機所への移行を促す措置がとられた他、復興支援住宅と呼ばれる恒久住宅の建設が兵庫県によって行われた。また、民間の住宅を借り上げて被災した住人への提供などが行われた。 これらの被災者向けの住宅の供給については、各市町村によって発行された罹災証明書が入居の根拠とされた。その証明を行うための調査が短期間のうちに少人数によって行われたこともあり、その精度の荒さが指摘された 兵庫県などを走る阪急電鉄阪神電気鉄道山陽電気鉄道などが震災による甚大な被害を受けた。震災直後からJR・私鉄など各社間で、連携して行われたバスや他社鉄道線による代替輸送は不通区間の解消とともに順次終了。4月の段階で、最初に不通区間を全て解消したJRは、新年度の定期券発行でも優位な状況となり、その結果、利用者のシェアはJRへとシフトする形となった。 西日本旅客鉄道JR西日本)も同様の被害を受けているが、資本力の違いと旧国鉄線であった影響もあり線路脇に比較的、余裕があり作業が行いやすく、また物流の大動脈でもある路線でもあったため、全国のJRグループに応援を呼んだことから急速な復旧を遂げて最初に運行を再開。複々線であった東海道山陽本線JR神戸線)は、地震発生翌日から姫路駅 - 西明石駅間、大阪駅 - 甲子園口駅間(複線)で順次、運転を再開。駅舎の半壊した鷹取駅はJR鷹取工場(2000年に廃止)の操車場に仮設ホームを設置して営業を再開した。また駅舎が全壊した新長田駅は当分の間、通過扱いをすることになった。 配線変更などにより部分的に開通し、74日後の1995年4月1日に最後の不通区間である灘駅 - 住吉駅間を復旧して、複々線での運転を再開し、新快速を朝夕に臨時扱いで増発した[34]。山陽新幹線も震災が起こった直後に8箇所の橋脚が倒壊して新大阪駅と姫路駅の間が不通となっていたが、81日後の同年4月8日に不通区間を解消した。 道路でも、中国自動車道や国道43号・国道2号は、復旧のための車線規制による渋滞が起こり、特に、高架が崩落した阪神高速道路神戸線第二神明道路や姫路バイパスなども通じ、大阪~姫路間の連絡道路となっている)は、長らくの間不通となる。このため、復旧までの期間には、国道9号や国道372号、国道27号に長距離トラックや長距離バスが殺到した。 中国自動車道では、吹田JCTと西宮北ICの間が不通となった。このことから、近畿地方内で京阪神を経由せずに、亀山(東海道沿線)や米原中山道沿線)から姫路(山陽道沿線)まで行くには、北近畿敦賀から和田山までを通らなければ迂回できないということが指摘されている。また、近年、論議がかまびすしい道州制においても、この北近畿迂回路の存在から「地域的・交通的問題を解決するには、交通的一体性を重視した枠組みにすべきだ」という意見がある。 震災直後、被災地の幹線道路で大規模な交通規制が実施された。当初は警察署が通行許可標章を発行していたが偽造が出回り渋滞の改善が見込めないため、その後コピーのできない新たな標章「復興標章」「除外標章」への切り替え、標章の交付審査を厳格にした。交通規制は阪神高速3号神戸線の復旧に合わせ徐々に緩和され1996年8月には全て解除となった。交通規制実施道路は次の通り。 復興物資輸送ルート…国道43号の一部区間名神高速道路の一部区間阪神高速5号湾岸線の一部区間(復興・除外標章掲示車両・バス・タクシー・緊急車両以外は通行できない。規制時間は日曜日・祝日を除く6時~19時) 生活・復興関連物資輸送ルート…国道2号の一部区間阪神高速7号北神戸線新神戸トンネル有料道路第二神明道路(復興・除外標章掲示車両・バス・タクシー・貨物車・二輪車・緊急車両以外は通行できない。規制時間は道路により異なる) 震災の情報は報道に大きく取り扱われ、発生後約3日間、テレビ・ラジオはほぼ全てのチャンネルが、24時間震災関連の特別番組となり、コマーシャルも殆ど放送されなかった。 大阪に本社を持つ近畿広域圏の民放テレビ各局は、地震発生から数日間は完全にCM枠を抜いて震災報道を全国に発信し続け、近畿圏以外でコマーシャルが流れるようになってからも近畿では一定期間CMを流さず、CM中にはライフライン情報を静止画で流していた。独立UHF放送局であるサンテレビジョンは、1月17日から1月22日まで106時間28分、独立ラジオ局であるラジオ関西は、1月17日から1月20日まで69時間放送を続けた。さらに、当時独立FM局であったKiss-FM KOBEは、1月17日から3月頃までCMを抜いて震災放送を行い、英語の話せるサウンドクルー(DJ)による外国人被災者向けの情報発信や、地域の被災情報発信する 臨時災害放送局としてFM796 フェニックスも設けられた。震災は外国人向けの情報の必要性が認識されたことでFM CO-CO-LOをはじめとする外国語放送設立のきっかけとなり、また市町村単位の情報が課題とされ、3年前に制度が整備されていたコミュニティ放送制度が全国的に脚光を浴びることとなった。 NHK教育テレビジョンNHK-FM放送では、数日間にわたって(特に、近畿向けには136時間の連続放送を含む)被災地域の視聴者に向けた安否確認情報放送が初めて適用された。これらは現在でも、各地域で災害が起きた際に放送されている。 近畿広域圏では、約7日後から一部通常番組を流し始めたが、お笑いなどの娯楽番組は放送されなかった。例外として発生3日後の1月20日の夜に、『探偵!ナイトスクープ』(ABC)が放送された。また『鶴瓶上岡パペポTV』(読売テレビ)では、震災の翌週の放送で、通常の客席を入れたトークではなく、笑福亭鶴瓶上岡龍太郎による、2人が実際に見聞きした震災に関する話題や救助活動を妨げかねないマスコミの報道姿勢に対する疑問を呈したトークを行った。 神戸市の人口は、震災前150万人だった人口が震災後一時139万人まで落ち込んだ。2004年11月には震災前の人口に戻っているが、中央区より西側の兵庫区・長田区・須磨区垂水区では、社会の高齢化・少子化少子高齢化)の影響もあり人口が震災前の水準に戻らずに減少に転じる区も出ている。特に、長田区においては深刻な状況となっている。一方で、中央区・灘区・東灘区では、利便性の高さから工場跡地などでの再開発により、分譲マンションの建設ラッシュが起こっており、西宮市にかけての地域に小学校の供給が追いつかなくなってきている。また、加古川市などの東播磨地域に転居した人も多い。 宝塚歌劇団の本拠地・宝塚市宝塚大劇場も大きな被害を受けた。竣工して数年であったが壁に亀裂が入ったほか、大劇場内の消火用スプリンクラーが誤作動し座席が濡れるなどした。およそ2ヶ月半の間公演不能の状態になり、安寿ミラの退団公演を上演していたが公演中止を余儀なくされた。3月、「国境のない地図」において公演を再開。 第67回選抜高等学校野球大会春の甲子園)については、「中止すべき」という意見があったものの、吹奏楽などによる鳴り物演奏を自粛して予定通りに実施された。 プロ野球オリックスブルーウェーブは『がんばろうKOBE』をスローガンに1995年、1996年とパ・リーグ連覇(1996年は日本一)を成し遂げ、被災者を勇気付けた。また、毎年恒例だった正月映画・男はつらいよシリーズの、12月に公開された第48作『男はつらいよ 寅次郎紅の花』では、神戸市側から松竹へロケの要請があったことや、山田洋次監督の元に、復興に努めていた夫妻からファンレターが届いたことがきっかけで、当時市民による復興が行われていた神戸市長田区が舞台となり、神戸の復興とボランティアがテーマとなった。 JFLヴィッセル神戸は1995年1月1日に正式にヴィッセル神戸として始動。日本プロサッカーリーグ昇格を目指し、1月17日に初練習をする予定だった。だが、震災により岡山県倉敷市での練習開始を余儀なくされ、神戸では練習場の確保が困難であるため、練習場を転々とせざるを得なかった。また、このように震災の日にチームが生まれたことを祈念するため、ホームスタジアムでの試合ではサポーター達により、試合前に「神戸讃歌」が歌われ続けている。 次は地震の反省について 最も重要な問題、すなわち古い住宅の耐震性がなくても違法とならない問題は変更されなかった。老朽化した木造の瓦屋根に死者が集中したのを受け、建築基準法を改正した。また耐震性の小さな建造物にも被害が多く発生したことを受け、消防庁では公共施設の耐震改修を指導している。 が、「阪神・淡路大震災」の起こった兵庫県でさえ、公共施設の耐震化率は48.3%にほぼ半分にとどまっている。東京78.1%(消防庁 2003、各都道府県耐震改修状況)に比べて耐震化は遅れており、さらに、民間の会社施設・マンションにおいての耐震化率はきわめて低い。さらに、ほとんど犠牲者が出なかった公共施設の耐震化は進んでいるが、犠牲者の80%以上を出した民間の耐震性のない木造住宅の耐震補強はほとんどなされていないとのこと。 また、震災の犠牲者6434人のおよそ1割に当たる約600人が、室内家具の転倒による圧死と推定する調査(山口大・大田教授のグループ)があったことから、震災発生後しばらくは「家具転倒防止金具」を購入する人が多く見られたが、今では普及が鈍化してるらしいです。 次は追悼記念について 毎年1月17日は、東遊園地などの広場・協会などにおいて式典が行われている。発生時刻の午前5時46分と、その12時間前と12時間後の午後5時46分に黙祷を行う。また、伊丹市昆陽池公園では、発生時刻の12時間前にあたる16日午後5時46分に黙祷を行い、ロウソクを発生時刻にあたる17日午前5時46分まで点灯している。神戸市中央区三宮にある東遊園地では広場に6,000本の灯篭で模った「1.17」を北側の神戸市役所庁舎を正面に掲示される。また、この灯篭が消えた場合は、式典開催者は手をつけずに、訪れた人々にろうそくを渡して点火してもらっている。灯篭は毎年若干の違いがあるものの16日夕方から17日21時まで点火されている。 ユーヤエメリヤーエンコのブログ-1.17追悼行事(東遊園地 ユーヤエメリヤーエンコのブログ-1.17希望の灯り(東遊園地) 上が1.17追悼行事(東遊園地)の写真、下が1.17希望の灯り(東遊園地)の写真です。 また1995年より毎年12月に、鎮魂と追悼・街の復興を祈願して神戸ルミナリエが開催されているが、近年は開催当初の意義から乖離する傾向にあり、その開催目的に疑問を抱く市民も増えている。特に開催地周辺の住民からは反対の声も一部挙がっているが、組織委員会が「鎮魂のため」という大義名分を掲げているために「公明正大に反対できず、苦慮している」という声もある。 被災地が即急に復興できたのは多くの支援者・ボランティアのおかげであったため、被災者は今も支援者に感謝の気持ちを声明や催し物によって示している。また、神戸市はこの支援活動の教訓や当時の恩返しの意味を込めて新潟県中越地震スマトラ島沖地震の時はどこよりも早く、多くの人材、資材などの援助を行ってきている。また、防災事業では、現在においてもこの震災を例に挙げられることが多く防災事業の原点となりつつある。 神戸市立小学校の音楽教諭である臼井真作曲・作詞の『しあわせはこべるように』という歌が復興の歌として取り上げられることが多く、各種学校団体をはじめ多くの追悼行事で歌われている(今では『しあわせ運べるように』として、Cooley High Harmonyや川嶋あいが歌っている)。 と、こんな風に阪神・淡路大震災について長く語らしていただきました。1995年当時の私は6歳で何が起こったのかわかりませんでしたが、衝撃的だったのはたしかです。この阪神・淡路大震災を忘れさせないためにも、いろんな人達に伝える必要があるのかもしれません。 今日はここまで。明日は未定です。また会いましょう。 参考資料 ウィキペディア http://ja.wikipedia.org:80/wiki/%E9%98%AA%E7%A5%9E%E3%83%BB%E6%B7%A1%E8%B7%AF%E5%A4%A7%E9%9C%87%E7%81%BD#.E9.9C.87.E7.81.BD.E3.81.AE.E5.8F.8D.E7.9C.81 朝日新聞2011.1.17 阪神大震災における木造建築物の被害と対策〈その1〉横浜茂之 平成23年1月17日閲覧 http://www.tetras.uitec.ehdo.go.jp/download/GinouGijutu/199504/19950409/19950409_main.html 阪神大震災における木造建築物の被害と対策〈その2〉 横浜茂之 平成23年1月17日閲覧 http://www.tetras.uitec.ehdo.go.jp/document/GinouGijutu/199505/19950507/19950507_index.html など