これを見れば自衛隊の歴史がわかるかも。
今年は終戦75年だが、自衛隊の前身のひとつである警察予備隊の創設から70年の節目でもある。警察予備隊は、1950年8月10日に発足し、12月29日に編成を完了した。
よく知られるように、その直接的な契機は朝鮮戦争だった。マッカーサーはその勃発を受けて、7月8日、「日本政府に対し、75000人の国家警察予備隊の創設と海上保安庁定員の8000名増加に必要な措置をとることを許可する」(大嶽秀夫編・解説『戦後日本防衛問題資料集』より。引用にあたっては一部表記を改めた。以下同じ)との書簡を吉田茂首相に出したのである。事実上の指令だった。 軍隊の復活なのか? 憲法9条との兼ね合いは? そのような問題を脇において、警察予備隊の編成は超特急で進められた。そのため、現在の秩序だった自衛隊からは想像もできないほど、さまざまな混乱や問題が立て続けに起こることになった。
大尉→中将級→大尉…役職が激しく乱高下
警察予備隊の編成は当初、旧軍の幹部を排除して行われた。背広組トップの増原恵吉長官も、制服組トップの林敬三総隊総監も、元内務官僚だった。そのため、上級指揮官の不足が悩みのタネだった。 NHKの記者を辞めて入隊した坂本力という人物は、東大卒で、戦時中に見習士官だったことを買われてか、いきなり一等警察士(大尉)に。しかも、中間司令部A司令官にも任命された。これは、現在の北部方面総監にあたる、中将級のポストであった。 詳しくない人のために書いておくと、将校クラスはおおむねつぎの順で偉くなっていく。 ---------- 少尉<中尉<大尉<少佐<中佐<大佐<少将<中将<大将 ---------- 坂本はいきなり下から3番目の階級に任命されただけではなく、さらにその5つ上の階級に相当する職務を任されたということになる。 もっとも、このような状態は長く続かなかった。新しい指揮官がやってくると、つぎつぎに「格下げ」を食らったという。 「それから1ヶ月ぐらいしたら正式な司令官が任命されてきて私は師団長に、4日ほどするとまた正式な師団長が来て連隊長に格下げ。そこで部隊移駐の命令で12月初めに約1000人の連隊を連れて宇都宮へ行った。そこへ本物の連隊長が赴任してきて、私は連隊の情報幕僚に。その連隊長と顔を合わせたら、私を追い出した仙台の師団長。彼も正式ではなかった。 とにかく一夜にしてなった中将から元の一尉(引用者注、大尉)に下がるまで約3ヶ月、その後、一尉から陸将(中将)になるまで25年かかった」(読売新聞戦後史班編『「再軍備」の軌跡』) このような役職の乱高下は、まさに草創期ならでは。今後、お目にかかることはないだろう。 そんな坂本力も、本人の言うとおり陸将まで昇進。第9師団長、陸上自衛隊幹部学校長などを務めて退官した。 余談ながら、坂本は、こんなエピソードも残しているので紹介しておこう。タイの駐在武官を務めたときのこと。そこに明仁皇太子(現・上皇)が親善訪問でやってきた。皇太子は色黒の坂本を見つけて、「あの色の黒い日本語のうまい人はダレ」と言ったという(篠原宏「官界人脈地理 防衛庁の巻」『月刊官界』1975年12月号)。