ジョギングしてた。今日は涼しかったこともあってなんとか調子よかった。距離3.8km+3.6km、タイム16:00,26:07.
今日は長崎に原爆が落とされた悲劇の日です。平和の誓い、守るべきだ
たとえ中国共産党による尖閣諸島侵略作戦が止められなくてもだ。
***** 平和への誓い
ふるさと長崎で93回目の夏を迎えました。大好きだった長崎の夏が76年前から変わってしまいました。戦時下は貧しいながらも楽しい生活がありました。しかし、原爆はそれさえも奪い去ってしまったのです。
当時、16歳の私は、大阪第一陸軍病院大阪日本赤十字看護専門学校の学生で、大阪大空襲で病院が爆撃されたため、8月に長崎に帰郷していました。長崎では、日本赤十字社の看護婦が内外地の陸・海軍病院へ派遣され、私たち看護学生は自宅待機中でした。
8月9日、私は現在の住吉町の自宅で被爆して、爆風により左半身に怪我を負いました。 被爆3日後、長崎県日赤支部より「キュウゴシットウセヨ」との電報があり、新興善救護所へ動員されました。看護学生である私は、衛生兵や先輩看護婦の見様見真似で救護に当たりました。三階建ての救護所には次々と被爆者が運ばれて、二階三階はすぐにいっぱいとなりました。亡くなる人も多く、戸板に乗せ女性2人で運動場まで運び出し、大きなトラックの荷台に角材を積み重ねるように遺体を投げ入れていました。解剖室へ運ばれる遺体もあり、胸から腹にわたりウジだらけになっている遺体を前に思わず逃げだそうとしました。その時、「それでも救護員か!」という衛生兵の声で我に返り頑張りました。 不眠不休で救護に当たりながら、行方のわからない父のことが心配になり、私自身も脚の傷にウジがわき、キリで刺すように痛む中、早朝から人馬の亡がらや、瓦礫で道なき道を踏み越え歩き、辺りが暗くなるまで各救護所を捜しては新興善救護所へ戻ったりの繰り返しでした。一週間後、大怪我をした父を時津国民学校救護所でやっと捜すことができました。
「お父さん生きていた!私、頑張って捜したよ!」と泣いて抱き付きました。 父を捜す途中、両手でお腹から飛び出した内臓を抱え呆然と立っている男性、片脚で黒焦げのまま壁に寄りかかっている人、首が千切れた乳飲み子に最後にお乳を飲ませようとする若い母親を見ました。道ノ尾救護所では、小さい弟を負ぶった男の子が「汽車の切符を買って下さい」と声を掛けてきました。「どこへ行くの?」と聞くと、お父さんは亡くなり、「お母さんを捜しに諫早か大村まで行きたい」と、私より幼い兄弟がどこにいるか分からない母親を捜しているのです。救護しながら、あの幼い兄弟を想い、胸が詰まりました。
2021年(令和3年)8月9日 被爆者代表 岡 信子